《本当にあった怖い事件》史上最多918人の集団自殺〈ジェームズ・ウォーレン・”ジム”・ジョーンズと人民寺院〉
James Warren “Jim” Jones(1931-1978)
ジェームズ・ウォーレン・”ジム”・ジョーンズは、アメリカ合衆国のキリスト教系新宗教(カルト組織)・人民寺院(英語: Peoples Temple)の創設者であり教祖です。
この人民寺院という組織は、1978年に教団内で集団自殺を決行し、一度に918人もの人々が犠牲となりました。その驚くべき人数は、2001年の9.11アメリカ同時多発テロが起こるまで最も多くの犠牲者を出した事件とされていました。
ジェームズ・ウォーレン・”ジム”・ジョーンズの生い立ち
出生から若齢期
ジョーンズは、1931年5月13日にインディアナ州で生まれました。
少年時代に、ヨシフ・スターリン、カール・マルクス、毛沢東、マハトマ・ガンジー、そしてアドルフ・ヒトラーに関する書物を熱心に読み、さらにはディヴァイン牧師、キング牧師、フィデル・カストロや、エンカウンターグループ、後にはブラジルのマクンバなどからも触発されたといいます。
ジョーンズは、友人を作ることが苦手であったことが主な原因となり、宗教に対して強い興味を抱くようになっていきます。ジョーンズの子供時代を知る知人たちは、「本当に異様な子供だった」「宗教や死にも憑りつかれていた」と述べており、ジョーンズが時折、両親所有の土地で小動物の葬儀を行っており、猫を刺殺したことがあるなどの証言もあるようです。
また、当時の友人の証言によると、ジョーンズの父親はアルコール中毒だったといいます。ジョーンズ自身は、自分自身が社会から疎外されていたという経験から、アメリカで抑圧されているアフリカ系アメリカ人コミュニティーにシンパシーを感じるようになっていったそうが、黒人の友人が家に入ることをジョーンズの父が拒否したことが発端となり、父子は人種問題について衝突、「本当に長い間」一言も話すことが無くなったそうです。その後、両親は離婚し、ジョーンズは母と共にインディアナ州リッチモンドへ移住しました。
その後、1949年頃にナースだったマルセリーヌ・バルドウィンと結婚しました。
共産主義への傾倒
1951年、ジョーンズはインディアナポリスのアメリカ共産党の集会に参加するようになっていきます。
共産主義に魅了されたジム・ジョーンズは、とある人物の尽力によって共産主義者にも関わらず、1952年に学生牧師として、ソマーセット・サウスサイド・メソジスト教会に所属しました。
しかし、ジョーンズの集会にアフリカ系アメリカ人達を参加させることを教会のリーダーが禁止したことが原因となってジョーンズは同教会の牧師を辞することになります。
しかし、其の間にジョーンズはとある心霊治療を目にし、人々が進んでそれに財産を捧げることを知りました。その治療から得られる金銭が、ジョーンズの掲げる社会を完成させる助けになったそうです。
ジョーンズの思想形成
人種間融和を目指す
ジョーンズは1956年6月11日から6月15日の間、ケイドル・タバナクルと呼ばれるインディアナポリスのホールで、大規模な宗教集会を開催しています。聴衆を集めるためには、知名度のある宗教家をや治癒伝道者をゲストとして呼んだりなどしました。
その集会に続き、ジョーンズは自身の教会を創設するに至ります。教会の名は何度か変わりましたが、最終的にピープルズ・テンプル・クリスティアン・チャーチ・フル・ゴスペルという名称に落ち着きます。人民寺院は当初、人種間融和を掲げた伝道団体だったのです。
その活動の中で、ジョーンズは人種統合を掲げる教会やレストラン、電話会社、インディアナ州警察(英語版)、映画館、遊園地、そしてインディアナ大学メソジスト病院(英語版)への支援も行っていました。更にジョーンズは、黒人の入店を拒否するレストランを洗い出すためにおとり捜査を計画するなどもあったそうです。
また、1961年に急病にかかったジョーンズは手違いで黒人病棟に入院させられたのですが、彼は白人病棟への移動を拒否しました。さらに彼はベッドを整え、黒人病人の病人用便器の清掃を行ったりもします。ジョーンズのこれらの行動に端を発した社会的圧力の結果、その病院の経営者たちは人種隔離病棟を廃止するに至りました。
しかし、ジョーンズのこうした人種間融和の活動は、当時の白人所有の企業や地域からは批判的に捉えられ、かなりの非難を浴び、嫌がらせなども受けたといいます。
虹色の家族
ジョーンズ夫妻は、数名の子どもを養子として迎え入れました。子どもたちは韓国系アメリカ人、ネイティブ・アメリカンの血をひく者や黒人など、白人以外の血が混ざっている子が選ばれたそうです。また、白人夫妻が黒人の子どもを養子に迎えることはインディアナ州においては初めてのことだったといいます。
ジョーンズは、家族を含める人民寺院全体を「虹色の家族」と思い描いていたそうです。
人民寺院の拡大
カリフォルニアへの移住
その後、ジョーンズはブラジルへの旅を経てカリフォルニアへ移住し、5年の間に人民寺院は急激に成長していきます。
1970年初頭までに、ジョーンズは従来のキリスト教を「軽薄な宗教」と侮辱したり、女性と非白人を圧迫する道具であるとして聖書を否定したり、「天の神」を全く持って神などではないと非難するまでになりました。
さらにその頃になると、彼は自分がマハトマ・ガンジーやファーザー・ディバイン、イエス・キリスト、ガウタマ・シッダールタ、そしてウラジーミル・レーニンの生まれ変わりであると説教するようになっていたといいます。
サンフランシスコでの人民寺院
同時に、人民寺院はサンフェルナンド、ロサンゼルスを含む都市や町に支部を広げていき、当時急進的抗議運動の中心地であったサンフランシスコに本部を移転させました。この移転が、ジョーンズと人民寺院信者達を政治的に影響力のある存在へと押し上げることとなります。
1970年代半ばには、数百から3000人近い信者を獲得したといいます。
1976年頃になると、ジョーンズは、外部の人間からでも彼が無神論者であると公に認められていくようになりました。
ボクシングの試合
サンフランシスコの教団信者達は、共同生活を行うように促され、教団は肉体的な教練を課すなどし、他の信者たちの前で、教団内の子供たちを木のヘラで殴打することもあったといいます。
この教練は、後にボクシングの試合形式と変化していき、鍛えられた子供は、その他のメンバーよりも上に位置付けられました。
ボブ・ヒューストンの死
人民寺院信者だったボブ・ヒューストン夫妻は、サンフランシスコ市内に家を所有していましたが、ここは教団の共同生活施設として使用されていました。
しかし、ジョーンズは夫妻のことを軽んじて扱うように信者たちに勧めたり、ボブを強制的に「ボクシングの試合」に出場させては家族の前で辱めたりしたそうです。
妻のショーは、コミューンの運営で疲れ果て、心理的虐待を教団内で訴え続けた結果挫折し、ある時教団を脱走しました。そして、夫ボブにも教団を脱退するように誘ったのです。
その三日後、ボブ・ヒューストンの死体がサザン・パシフィック鉄道の操車場で発見されました。教団側は、ヒューストンは死亡する日の朝、偶然にも教団を脱退したと主張しましたが、その脱退届はタイプライターによって書かれており、妻ショーの発言によると、彼は手紙などでもタイプライターを使うことは無かったそうです。
ボブの父親でAP通信の写真家だったロバート・”サミー”・ヒューストンは、息子の死に教団が関与していると確信していました。
政治とのつながり
殆どのカルト宗教の教祖とは異なり、ジョーンズは地方レベルどころか国家レベルの重要人物に面会することができるようになり、晩餐会で司会を務めたり、面会や交流の中で熱い議論を交わすなどし、政治的にも強い影響力を持つようになっていったといいます。
他の宗教組織とは異なり、「人民寺院」には明確な政治的メッセージがあったからです。
この頃から、ジョーンズタウンに親族を残している人民寺院脱退者達は弁護士ティム・ストーンと共に団体「憂慮親族」を結成し、人民寺院やジョーンズに対する不平不満や、コミュニティにおける人権蹂躙を主張していきます。
革命的自決
ジョーンズは死をもって世界の非人間性に抗議するとして「革命的自決」を説くようになっていきます。
1976年1月1日、ジョーンズは、ワインを信者にふるまった後で、このワインには毒が入っており45分後に皆死ぬと発表しました。この「悪ふざけ」は忠誠のテストでしたが、後にジョーンズタウンでは「白夜」と称してこうした自殺のリハーサルを繰り返したといいます。
ジョーンズは子供の時から自殺願望を抱いていたそうですが、この頃は英雄たちの殉死と教団の自殺計画を同一視するようになり、自分は信者たちを刑務所や強制収容所、そして核戦争から救うために生きてきたと語っていたそうです。
ジョーンズタウンの創設
1974年、人民寺院はガイアナで土地を借り受ける契約を結びました。
ピープルズ・テンプル・アグリカルチュラル・プロジェクト、非公式にはジョーンズタウンと呼ばれたそのコミュニティは、「社会主義者の楽園」であり、サンフランシスコのマスコミからの糾弾に対する「聖域」の2つの目的のために建設され、ジョーンズ自身は、博愛的な共産主義コミュニティのモデルとして開拓したと主張していました。
1977年初頭には、50人程度の移住者しかいませんでしたが、1978年の終わりごろまでに、900人を超すまでに増大しました。
ジョーンズタウンへと移住した人々は、南国の楽園、想定された外界の邪悪から自由となることが約束されていたといいます。
なお、ジョーンズは、ソビエト連邦、キューバ、北朝鮮や他の共産主義国家における強く制限された移民制度の様に、人民寺院信者がジョーンズタウンを離れることを許可しなかったそうです。
ジョーンズは薬物嗜癖があり告発も受けていましたが、人種を分け隔てしない教会を設立して恵まれない人々を助けたということで、一部の信者たちによって強く尊敬もされていました。
ジョーンズタウンにおいて、ジョーンズは「昇天」と呼ぶ信念を宣伝し始めます。「昇天」は、ジョーンズとジョーンズの信者達が、一緒に死に、そして他の惑星へと移住しこの上なく幸せに生活するという内容でした。
楽園の終焉
下院議員たちの潜入調査
1978年11月17日、カリフォルニア州第11区選出のアメリカ合衆国下院議員のレオ・ライアンが、ジャーナリストたちと共に教団による人権蹂躙の調査のためにジョーンズタウンを訪れます。
この訪問の間、ライアンが教団信者にナイフで襲われたため、一行は翌日に慌ただしくジョーンズタウンを離れました。その際に、何人かの人民寺院信者が、ジョーンズタウンを離れたいと申し出たため同行し空港に向かいましたが、道中で一行は教団の自警団によって襲撃されてしまいます。
これにより、ライアン、3人のジャーナリスト、1人の教団離反者が殺害されました。
集団自決の決行
同日の夕方、終焉の時はやってきました。
ジョーンズタウンにおいて、ジョーンズは集会を開き、信者たちに対し、もうすぐここに襲撃者たちがやってきて、無垢な赤子を襲撃し、子どもたちや我々を拷問するだろう、と伝えました。
一部の信者たちは恐れ、パニックに陥り泣き叫びだしますが、ジョーンズは落ち着いた様子で「ヒステリーを止めるのです。これは社会主義者や共産主義者が死に臨むやり方ではありません。我々が死に臨むやり方ではありません。我々は威厳をもって死ななければならないのです」と諫めました。
ジョーンズは「死を恐れてはいけません」、そして死は「別の段階へ向かうためのステップでしかないのです」そして、それは「友」だと言いました。
そして最後にこう締めくくりました。
「我々は自殺するのではありません。我々は、この非人道的な世界の状況に対抗するために革命的自殺という行動を行うのです。」
教団は、ブドウ味のフレーバー・エイド(英語版)とシアン化物の混合飲料を信者たちに飲ませ、それにより914人が死亡、その内276人が子供でした。
この集団自決は、新興宗教(カルト)が破滅的なものであるという認識を社会に深く刻み込むと同時に、2001年のアメリカ同時多発照ろが発生するまで、アメリカ合衆国において最多の被害者数を出した事件として記録されることになりました。
ジョーンズの死
ジョーンズ自身は、同日にあたまに銃撃を受けデッキチェアで死んでいるのが発見されました。検死の結果、自分で銃撃したと考えられています。
妻のマルセリーヌは、ジョーンズタウン内の講堂で服毒自殺しているのが発見されました。
ジョーンズタウンの貴重な写真
ネットメディアVICEに、当時のジョーンズタウンのようすがよく分かる写真が多く掲載されている記事があったのでご紹介します。
ジム・ジョーンズや「人民寺院」をモデルにした映画・ドラマ
『サクラメント 死の楽園』(2013)
「人民寺院」が引き起こした集団自殺事件を基にした映画で、プロデュースは『ホステル』のイーライ・ロスが手がけ、監督を『サプライズ』、『V/H/S シンドローム』のタイ・ウェスト。カルト組織に潜入した取材班が撮影する様子を追いかけたP.O.Vタイプの映像となっています。
『ガイアナ人民寺院の悲劇』(1980)
「人民寺院」が引き起こした集団自殺事件を基にした映画で、、教祖役にS・ホイットマンが扮するほか、J・コットンが教団の弁護士役で出演している。
レオナルド・ディカプリオが主演で映画化?
2021年11月、レオナルド・ディカプリオが、映画『ジム・ジョーンズ(原題) / Jim Jones』でカルト教団「人民寺院」の教祖を演じるべく最終交渉に入ったとDeadlineが報じています。
『ヴェノム』のスコット・ローゼンバーグが脚本を執筆。MGMの下、ディカプリオの制作会社アッピアン・ウェイが製作を行うことになっているそうですが、その後続報は見あたりませんでした。
まとめ
当初は、純粋な人種間融和を求め、まだまだ差別意識の色濃かった資本主義や国家に対する反骨精神から共産主義活動に傾倒していったように思われるジョーンズ。
しかしながら、自分の創設した組織「人民寺院」の急拡大と自身のカリスマ性から、徐々に「神はいない」や「自分こそ神である」などと信仰を持つ宗教としてというよりは、宗教の皮をかぶりながらビジネスの才で自身の理想国家を作り上げた人のような感じがします。
しかしその集大成は、脱退を快く思わず制裁を加えるなどする悪しき共産主義国家そのものであったとも思われ、最後には為す術もなく集団自決という最悪のシナリオを迎えました。
ジョーンズが悪だったのか?と聞かれたら返答に困る人も多いのではないでしょか
私たちは安全な場所から「自殺はだめ」と安易に主張することが可能です。しかし、ある人々にとっては、あるいは人生のどこかにおいて、救済のひとつが「死」である、もしくは「死」が唯一の希望である場合があるのは否定できません。
いずれの宗教に関しても、一様に「悪」と決めつけることは非常にむずかしいです。救われている人にとっては、それは救済にほかならず、信じている人にとってはそれが真実であり、希望なのでしょう。
…ただ、個人的にはやっぱりあらゆる信仰の自由を尊重したいとは思うものの、自由に脱退できないことや、暴力などはやはり違うのかな?と感じてしまいます。
皆さんは、どう感じたでしょうか…??
今回は、集団自殺で史上最多の被害者を出した「人民寺院」を率いたジェームズ・ウォーレン・”ジム”・ジョーンズについてまとめてみました。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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